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| No.18 三条祭りが終わりました! | 04/05/17(月)8:38:29馬場信彦さん |
| 五月14・15・16日と開催の、初夏の風物詩と言われている、三条八幡宮の春季大祭(市民のいやさかと産業の振興を祈願する)が、おかげさまで無事に終わりました。八幡宮の社殿は再建(さいこん)のため、現社殿でのお祭りは、春季大祭で最後のお祭りとなることから、例年に比して盛大な感じがしました。 来年の春季大祭から、新社殿で執り行われます。そんな訳で来年はおそらく多くの人たちでにぎわいます。 → http://www.shuppan.co.jp/ |
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| No.17 ☆『新潟県小学生読書感想文題38集』刊行されました。 | 04/02/20(金)22:14:08馬場信彦さん |
| 新潟県小学校図書館協議会会長の末崎和成先生は、「発刊にあたって」、次のように述べておられます。 小学生のみなさんへ 今年は、全国と新潟県の二つの読書感想文コンクールに、新潟県内の小学生から、1791編の応募がありました。昨年は1739編の応募でしたので52編増加しました。その中から「最優秀賞」と「優秀賞」に輝いた作品をまとめ、読書感想文第38集ができました。 私が感想文を読んで感じたことは、一冊の本をとても深く読み、新しい自分を発見しているということです。その感動をひとに伝えたいという思いから、言葉を選びながら書いているようすが目に浮かんできます。感想文が書ける人は、読書が大好きで、自分で使える言葉をいっぱいもっている人であり、深く考えることができる人であると思います。人は何かを考えるときには、言葉を使って考えるからです。感想文集を手にしたみなさん、友だちがどんなことに心を動かされたのかを感じとるとともに、これからも多くのすてきな本との出会い、豊かな言葉の世界を広げて欲しいと願っています。 指導者の皆さんへ 多くの学校では、子供たちの読書意欲を高めるための多様な取り組みがなされていることと思います。 また、表現力を高めることに力を注いでいる学校も多いかと思います。感想文コンクールへの応募数も、昨年度から増加傾向にあります。寄せられた感想文を拝読して感じますことは、読みながら深く考え、自己を見つめることのできる心豊かな子供たちが大勢いること、その陰には読書指導に熱心な先生方がおられえうということです。子供たちが豊かな読書生活を築くために、温かく見守り指導に当たられた先生方、審査に当たられた先生方に、心から感謝申し上げます。今後とも、多くの子供たちの個性、可能性を引き出すために、読書感想文の指導にご尽力いただきますよう心から願っております。 感想文コンクールの審査委員長・新潟大学名誉教授大橋勝男先生からは、貴重な「審査講評」をいただきました。今後の読書感想文の指導に役立てていただければ幸いです。 この文集が、子供たちの本棚や学校図書館に備えられ、読書指導に活用されますよう願っております。 【記】 ?.書 名 『新潟県小学生読書感想文 第38集』 ?.監 修 新潟県小学校図書館協議会 ?.体 裁 A5判・並製・美麗カバー付・214ページ ?.定 価 1000円(本体953円) ?.ISBN ISBN4-8221-0198-5 C8095 \953E → http://www.shuppan.co.jp/ |
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| No.16 野島出版の新刊!『村の伝説』のご案内 | 04/02/13(金)22:13:33馬場信彦さん |
| お札の偽造抵抗力強化のために、今年七月頃を目処に、現在の一万円、五千円、千円に代わる新様式の紙幣が発行される。新千円札の肖像画となる野口英世博士が、世界の細菌学者として知られるようになったのは、血脇守之助(東京歯科大学創立者)が、米北教校英語の教師として月報25円で三条に赴任したことに始まる。 その経過は、野口英世は明治から昭和初期の細菌学者で、大変苦学の末に細菌学の道に進み、黄熱病、梅毒病原スピロヘータの研究で知られている。黄熱病の研究のためアフリカに行き黄熱病により、昭和三年(1928)に亡くなった。 一方の血脇守之助は、千葉県我孫子町に明治三年(1870)に加藤家で誕生し、18歳の時に血脇家の養子となった。血脇と三条との出会いは、長岡出身の哲学者井上円了(東洋大学創立者)の紹介で、三条町にあった「米北教校(東本願寺の僧侶の子弟を教育する中等教育機関)」の英語の教師として赴任したことから始まる。 三条到着は、明治23年1月のことで、守之助21歳の時である。当時の三条町には米北教校のほかに中等教育を施す学校が無かったことから、早速、守之助は、京都本山に中等教育普及を建言し、一般家庭の子弟にも米北教校に入学出来るよう奔走、同年4月から一般の子弟も入学が許可された。 守之助が三条人となってから、下宿を越前屋、成田八十八宅、村松屋と三回替わった。明治24年の夏、米北教校の布教講演で各地を廻り、村松屋の下宿に戻ってみると、表通りに面した母屋は三条病院となり、若い医師が数名の看護婦と共に患者の治療に当たっていあた。この若い医師はドクトル田原で、アメリカのインデアナポリスで医学を学んだことから、三条病院長として破格な月報250円で迎えられていた。守之助とは同じ屋根の下で暮らす因縁から、刎頚の交わりを持つようになっていった。 明治25年2月、米北教校で学生ストライキが起こり、一週間にわたり休校した。卒業生から在校生に「某教師は間違いだらけの授業をしている」と、手紙を送りつけたことから始まった。守之助は全生徒を集めて、「学校に求めるところあれば、合法的に手続きを踏むべきだ」と諭した。この事件を契機に、守之助は中学教師を続けることに迷いが出てきた。 ある日、東京にいる友人から毎週のように送られてくる英字新聞『ヘラルド』を読んでいると、米国歯科医師の広告文が電光のように目を射た。すぐにドクトル田原を訪ねて相談した。田原は、「米国では歯科医の地位は高いが、日本歯科医界は暗闇であるから、大いにやりがいのある仕事である」と激励した。 明治26年2月、守之助は米北教校に辞表を提出し、同年4月に本邦唯一の歯科医育成機関であった高山歯科医学院にドクトル田原などの経済的な支援をえて入学した。入学して2ヶ月余りの頃、高山院長が米国シカゴ市で開催の、第2回万国歯科医学会議で日本を代表して演説することになり、『高山紀斎小伝』を英訳してもって行くことになった。この英訳を守之助が引き受けたことから、学生でありながら学院の運営を担当する幹事に指名された。銀座にあった高山治療院で2ヵ年ほど助手を務める機会に恵まれ、明治28年4月に歯科医師の試験を受けた。105名の受験者で、合格者は守之助を入れて16名であった。 明治29年一月、ドクトル田原が上京のおりに、田原から「私の米国留学中の同級生にドクトル渡部が会津いるので紹介するから、夏期休暇中に出張診療に行くよう」熱心にすすめられた。当時は福島県下には、福島町を除いては歯科医がいなかったことから、近郷近在から患者が殺到した。この渡部家の玄関座敷にいつも机に向かって勉強している風采オあがらない青年がいたので、守之助は声をかけたところ、「私は野口清作です。医者になりたくて、今20歳で、18歳の時からドクトル渡部の指導を受けて、宣教師やtyy学校の先生から英語、フランス語を学び、ドイツ語は独習しています」と話した。守之助は、野口の非凡さと根性、努力に驚き、「上京の際は、高山歯科医学院の主幹をしているので、立ち寄るよう」い誘った。この日が血脇と野口との出会いの日となる。その年の9月に野口は上京したが、学資金が届かず無一文になったことから、守之助を頼った。 学院では、野口はランプの掃除や授業時間の鐘を鳴らす学僕となった。一日3時間睡眠主義で医者を目指している野口のために、喪医の助は済生舎への入学を応援した。その後、明治33年12月にアメリカ丸で渡米することになり、守之助は自分の事のように喜び、留学の金を工面して送り出した。野口は持ち付けない大金を得たことから、渡航費一切を遊里で使い果たしてしまった。この時も守之助は奥さんの着物まで質草にして野口のアメリカ行きの費用をつくった。野口英世が世界の桧舞台に上がったのは、本人の努力は勿論だが、何と言っても血脇守之助がなかりせば成就しなかったに違いないし、血脇が三条に来たことからの人生の出会いと考えると、不思議な話となる。歴史に、IF(もし)はないが、血脇守之助が「三条に赴任」していなかったら、血脇守之助自身の人生も、野口英世の人生も変わっていたに違いない。これから発行される予定の新千円札の野口英世は、きっと「三条」には感謝するだろう。 → http://www.shuppan.co.jp/ |
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| No.15 血脇守之助との出会いから新千円札となった野口英世 | 04/01/14(水)21:22:33馬場信彦さん |
| お札の偽造抵抗力強化のために、今年七月頃を目処に、現在の一万円、五千円、千円に代わる新様式の紙幣が発行される。新千円札の肖像画となる野口英世博士が、世界の細菌学者として知られるようになったのは、血脇守之助(東京歯科大学創立者)が、米北教校英語の教師として月報25円で三条に赴任したことに始まる。 その経過は、野口英世は明治から昭和初期の細菌学者で、大変苦学の末に細菌学の道に進み、黄熱病、梅毒病原スピロヘータの研究で知られている。黄熱病の研究のためアフリカに行き黄熱病により、昭和三年(1928)に亡くなった。 一方の血脇守之助は、千葉県我孫子町に明治三年(1870)に加藤家で誕生し、18歳の時に血脇家の養子となった。血脇と三条との出会いは、長岡出身の哲学者井上円了(東洋大学創立者)の紹介で、三条町にあった「米北教校(東本願寺の僧侶の子弟を教育する中等教育機関)」の英語の教師として赴任したことから始まる。 三条到着は、明治23年1月のことで、守之助21歳の時である。当時の三条町には米北教校のほかに中等教育を施す学校が無かったことから、早速、守之助は、京都本山に中等教育普及を建言し、一般家庭の子弟にも米北教校に入学出来るよう奔走、同年4月から一般の子弟も入学が許可された。 守之助が三条人となってから、下宿を越前屋、成田八十八宅、村松屋と三回替わった。明治24年の夏、米北教校の布教講演で各地を廻り、村松屋の下宿に戻ってみると、表通りに面した母屋は三条病院となり、若い医師が数名の看護婦と共に患者の治療に当たっていあた。この若い医師はドクトル田原で、アメリカのインデアナポリスで医学を学んだことから、三条病院長として破格な月報250円で迎えられていた。守之助とは同じ屋根の下で暮らす因縁から、刎頚の交わりを持つようになっていった。 明治25年2月、米北教校で学生ストライキが起こり、一週間にわたり休校した。卒業生から在校生に「某教師は間違いだらけの授業をしている」と、手紙を送りつけたことから始まった。守之助は全生徒を集めて、「学校に求めるところあれば、合法的に手続きを踏むべきだ」と諭した。この事件を契機に、守之助は中学教師を続けることに迷いが出てきた。 ある日、東京にいる友人から毎週のように送られてくる英字新聞『ヘラルド』を読んでいると、米国歯科医師の広告文が電光のように目を射た。すぐにドクトル田原を訪ねて相談した。田原は、「米国では歯科医の地位は高いが、日本歯科医界は暗闇であるから、大いにやりがいのある仕事である」と激励した。 明治26年2月、守之助は米北教校に辞表を提出し、同年4月に本邦唯一の歯科医育成機関であった高山歯科医学院にドクトル田原などの経済的な支援をえて入学した。入学して2ヶ月余りの頃、高山院長が米国シカゴ市で開催の、第2回万国歯科医学会議で日本を代表して演説することになり、『高山紀斎小伝』を英訳してもって行くことになった。この英訳を守之助が引き受けたことから、学生でありながら学院の運営を担当する幹事に指名された。銀座にあった高山治療院で2ヵ年ほど助手を務める機会に恵まれ、明治28年4月に歯科医師の試験を受けた。105名の受験者で、合格者は守之助を入れて16名であった。 明治29年一月、ドクトル田原が上京のおりに、田原から「私の米国留学中の同級生にドクトル渡部が会津いるので紹介するから、夏期休暇中に出張診療に行くよう」熱心にすすめられた。当時は福島県下には、福島町を除いては歯科医がいなかったことから、近郷近在から患者が殺到した。この渡部家の玄関座敷にいつも机に向かって勉強している風采オあがらない青年がいたので、守之助は声をかけたところ、「私は野口清作です。医者になりたくて、今20歳で、18歳の時からドクトル渡部の指導を受けて、宣教師やtyy学校の先生から英語、フランス語を学び、ドイツ語は独習しています」と話した。守之助は、野口の非凡さと根性、努力に驚き、「上京の際は、高山歯科医学院の主幹をしているので、立ち寄るよう」い誘った。この日が血脇と野口との出会いの日となる。その年の9月に野口は上京したが、学資金が届かず無一文になったことから、守之助を頼った。 学院では、野口はランプの掃除や授業時間の鐘を鳴らす学僕となった。一日3時間睡眠主義で医者を目指している野口のために、喪医の助は済生舎への入学を応援した。その後、明治33年12月にアメリカ丸で渡米することになり、守之助は自分の事のように喜び、留学の金を工面して送り出した。野口は持ち付けない大金を得たことから、渡航費一切を遊里で使い果たしてしまった。この時も守之助は奥さんの着物まで質草にして野口のアメリカ行きの費用をつくった。野口英世が世界の桧舞台に上がったのは、本人の努力は勿論だが、何と言っても血脇守之助がなかりせば成就しなかったに違いないし、血脇が三条に来たことからの人生の出会いと考えると、不思議な話となる。歴史に、IF(もし)はないが、血脇守之助が「三条に赴任」していなかったら、血脇守之助自身の人生も、野口英世の人生も変わっていたに違いない。これから発行される予定の新千円札の野口英世は、きっと「三条」には感謝するだろう。 → http://www.shuppan.co.jp/ |
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| No.14 2004年を迎えておめでとうございます。 | 04/01/08(木)21:21:54馬場信彦さん |
| 今年は、雪なしで穏やかな新年を迎えました。申年は物事が伸びる年だそですので、おおいに発展できる年とすべく頑張りましょう。 私のライフワークとしております、『三条がとりもったと不思議な出会い』シリーズとして、日本的人物の発掘に努めておりますが、今年は、第11回目となり三条新聞社元旦号に越後の名著『北越奇談』を著した三条の人橘崑崙(たちばなこんろん)を紹介させていただきました。『北越詩話』の著者として知られ、坂口安吾の父でもある坂口五峰は、「越後には江戸時代の著作物で二大奇書として、『北越奇談』『北越雪譜』がある」と言っています。橘崑崙が書いた『北越奇談』の序文は、江戸の作家柳亭種彦が書きました。挿絵は一流の画家として知られていた葛飾北斎が15点描きました。橘崑崙の挿絵は4枚あり、文化九年(1812)春、江戸の永寿堂から刊行されました。 『北越奇談』は、越後の奇談として、二十四奇や怪談、越後の人物などが書かれており、橘崑崙五十歳ころの作品ではないかと言われています。 柳亭種彦の序文は、次のように書かれています。 朝の花園には蝶が舞い、水豊かな夕べの池には蛍が闇を照らす。それぞれ好むところを慕ってのことである。私は一日じゅう本を読んでいてもあきない。であるから書店(出版社)の者がしばしばやってくる。ある日、永寿堂の主人がきれいな色表紙の本の包みを抱えてやってきた。その表題は『北越奇談』とあった。私はそれを読み終えて言った。「他国の名勝古跡は慕わしいものです。それを知ろうと思えば書物があるし、その様子を見たいと思えば画がある。この書を読むとまるで北越に行ったようだ。どうして出版しないのですか」書店の主人(西村与八)は笑っていう。「私は早くからそのつもりでなのですが、」著者の橘崑崙先生は遠い北越の三条です。彫りが終わってから崑崙先生の校合を待っていたのでは、発売の機会を逃してしまいます。種彦先生にその校合をお願いしょうと思ってきた次第です」。こういう書店の依頼を断り切れなかった。書写や彫の誤りは補うとはいうものの、私はただ通俗書を書いているだけで、このような書物の内容を調べる才能はなく、崑崙先生の意向と異なる点も多いだろう。それは稿本ができてから再び崑崙先生の校閲を経ないで発売するからである。文化八年辛未蘭秋 柳亭主人種彦」。(現代語訳北越奇談より) 序は本文のことは触れていませんが、崑崙は越後の奇談を広く集め、楽しい読み物として永寿堂から出版しました。江戸で評判になったことは、想像に難くありません。鈴木牧之の書いた『北越雪譜』が雪深い魚沼の越後の物語とすれば、『北越奇談』は蒲原を中心とした越後の物語です。『現代語訳北越奇談』で、時間の流れのゆるかった時代の越後の姿に触れてみることも意味あることではないでしょうか。ご一読をおすすめする所以です。 野島出版の現代語訳で、ぜひお読みいただきたくご案内申し上げます。 → http://www.shuppan.co.jp/ |
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| No.13 『鈴木牧之の小説』のなかの広大寺について | 03/10/22(水)21:20:47馬場信彦さん |
| 新保広大寺 新保ナー エーコリャ広大寺が お市のチャンココリャなめたナーエー イイトモ イイトモ なめたその口でヤーレ お経コリャ読むナーエー イイトモイイトモ 新保広大寺に虎の皮着せて お市乗せては藪の中 千里走れとはそりゃ無理だ 新保広大寺に産屋ができた お市案じな小僧にする 新保広大寺がねぎ食って死んだ 見れば泣かれますねぎ畑 新保広大寺が手杵ぐそこいた 尻が痛いとってなどこぼした 娘十八焼け野のわらび いつも目元がかぎかぎと 今の若い衆はごまがら育ち 人の軒場に立ちたがる 昔なじみと太神楽にゃ迷うた いかざるなるまい四谷さまでも 殿さ殿さとゆさぶり起こすがどうじゃいな 殿さ砂地の芋じゃない 鯉の滝のぼりなんというてのぼる 山を川にしょうと言うてのぼる ちゃらりちゃらりと雪駄の音が どこへ忍びの音だやら さらし手拭よごれたらよこせ 洗ってやります陰干しに さらし手拭ちょいとかぶり 横町通いがやめられぬ 回る回る糸とり車が回る わたしゃりんきで気が回る 桔梗の手拭持たぬで持てば 人が上げ下げ見てならぬ 桔梗の手拭が色とるならば おれも染めます桔梗の手拭 馬鹿なことしたなんにもならぬ ならぬ南瓜に肥をした 松の葉のよな契りがほしい 散って落ちても夫婦づれ お前見るとて橋から落ちた お前見ないであわれみた 来いと誰が言うたあの笹薮へ 露で小褄がみなぬれる 新保広大寺の和尚さま見れば 赤い衣に赤子を抱いた お市めんめが玉子に目鼻 しんの心は鬼やら蛇やら 広大寺の由来(野島出版発行『新潟県の民謡』小山直嗣著から) 広大寺は甚句、松坂、おけさと共に新潟県の源流といわれ、日本の民謡史に大きな影響を及ぼしている。元禄年間、中魚沼郡下条村新保(現十日町市)の禅寺、鶴嶺山広大寺の住職が、寺の門前にあった豆腐屋の若後家お市と深い仲になったのを、村人たちが風刺して歌い出した唄だといわれているが、元来は十日町地方の神楽せり唄「こだいず」が変遷して、伊勢皇大神のお札をかかげて歌っていたところから語呂の似ている「広大寺」と結びつき、和尚の行状にまつわる伝説を取り入れて元唄らしくしたものと考えられる。同地方には「神楽広大寺」と呼ばれる同系の唄が残っている。『日本民謡辞典』には、伊勢代神楽の踊り唄「皇大神」をもじって「広大寺」の名が生まれたものだとある。 「新保広大寺」は、七七七五の短詞型だが、これが県内各地に広まって根づき「〇〇広大寺」や「古代詞」「古代神」になったものと思われる。一方これから派生した「細広大寺」「広大寺くずし」は、七七を反復する長編詞型をとり、さらに口説きかし「越後口説き」となって各地を渡り、富山県の「古代神」となり関東へ渡ったものは「八木節」に変化、北に進んだものは「おいとこそうだ」「津軽じょんがら節」になったといわれている。このほか各地に「小大臣」「古大臣」「高大寺」「幸大寺」「子大事」という唄があるが、いずれも「広大寺」の音に当て字したもので、同系統の唄である。 広大寺の伝説 [その一]広大寺の五代目住職・廊文和尚(元禄13年没)が、寺の門前に住む豆腐屋の若後家お市が亡夫の墓参りに来る姿を見て懸想した。そしてなにかと面倒を見ているうちに親しくなり、ついに情を通じてしまった。ところが、日ごろからお市に惚れていた庄屋の弟平次郎はこれを知って和尚を憎み、和尚を追放しょうと瞽女(ごぜ)に金を握らせ、和尚の悪口を唄にして歌わせた。これが「新保広大寺」の元唄とされている。 新保広大寺お市のチャンコなめた なめたその口でお経を読む 新保広大寺のかけたる袈裟は お市ゆもじの裏しきだ このため廊文和尚は寺に居たたまれず、裏の松林で首をくくって死んでしまった。ところが平次郎も、死んだ和尚の霊にとりつかれ、まもなく信濃川に身を投げて死んだという。 その二はいずれ紹介 → http://www.shuppan.co.jp/ |
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| No.12 ☆新刊『現代語訳 鈴木牧之の小説』のご案内 | 03/10/22(水)21:19:29馬場信彦さん |
| 近々(11月初旬)、首題の本が野島出版より刊行いたします。この本は、『北越雪譜』『秋山記行』の著者鈴木牧之書き残した三本の小説を、お馴染みの磯部定治氏により現代語訳されたものです。 その小説とは、「小説 広大寺躍(こうだいじおどり)」「塩冶判官一代記(えんやはんがんいちだいき)」「戯作 秋山記行(げさく あきやまきこう)」の作品が収載。 「小説 広大寺躍」 お市と広大寺の和尚仏山の艶聞は民謡「新保広大寺」に歌われ、広く知られています。牧之はこの事件を題材として、舞台を室町時代に設定して、人間の因縁の不思議さが描かれています。 「塩冶判官一代記」 室町時代、出雲国の守護塩冶高安とその奥方さざなみ、さざなみに子なきがゆえに召し入れたあらたま、二人の確執と高安の傲慢さから起きる家中の騒動。未完ながら波乱万丈のおもしろさのある牧之の力作。 「戯作 秋山記行」 すでによく知られている「秋山記行」を戯作にした作品で、主人公は十返舎一九。それに牧山(牧之自身を擬す)が同行するという筋立てで、狼の入水自殺や大蛇が温泉に入ったり、禁じられていた巻物を見たため、あわや簀巻きにされて信濃川に投げ入れられそうになったりの抱腹絶倒の物語。 概要 A5判・約180ページ・上製・美麗カバー付・定価2520円(税込) 磯部定治氏の著者略歴 昭和6年、新潟県北魚沼郡小出町に生まれる。昭和27年、越南タイムス社に入社。平成四年、同社を退社。著書は『魚野川物語 → http://www.shuppan.co.jp/ |
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