良寛は、真言宗宝塔院の住職隆全(1785〜1835)を訪ねて、時には寺に数か月も滞在した。「禅定窟良寛書 三条宝塔院」と書かれた横三字の遺墨が市内に現存。宝塔院は、良寛の修行道場でもあったようである。隆全がまとめた「良寛法師歌集」には、良寛の歌127首が収められ、分水町牧ケ花の解良家に保存。


交通

 JR燕三条駅ょり3.5km
 JR東三条駅より1.7km
 JR北三条駅より0.4km
 越後交通・新潟交通バス神明町下車0.7km
 高速道路三条燕インターょり3.2km

解説

 真言宗智山派の宝塔院は、越後三十二番札所ともなっている古刹です。この寺の開基は大治元年(1126)とされています。寺の十五世隆全(りゅうぜん)和尚(1758〜1835)は、五合庵のある国上寺で修行し、しかも良寛さまと同年齢のことなどから、ともに畏敬の友人でした。気が向けば数か月間を宝塔院で過ごされることは、良寛さまには珍しいことではありませんでした。
 幼少の時から良寛さまにじかに接して、見聞したことを書き綴った『良寛禅師奇話』の筆者、解良栄重(けら・よししげ)は、分水町牧が花の豪農で、良寛さまを崇敬、懇ろな交際を続けた解良叔問(しゅくもん)の末子で、同家の十三代。栄重は幼い頃宝塔院で、隆全について書の手習いをしており、宝塔院に宿泊された良寛さまに、菅公の像をねだって書いてもらったことを奇話に収めています。
 隆全の稿本『良寛法師歌集』は、隆全が晩年にまとたもので、短歌が124首、旋頭歌(せどうか)2首・長歌1首が収められ、解良家に所蔵されています。良寛歌集の稿本としては最古のものとされ、この本の巻末に栄重は、「この良寛禅師の歌集は、前宝塔院の住職隆全法印のきけるままに書おけるもの也。ともに一時の高徳也。永可秘蔵(ながくひぞうすべき)もの也。百木園(ひゃくぼくえん)主人栄重記」としるしています。隆全の人柄を知るうえでも大切な資料です。
 良寛さまにとって隆全は無二の親友であったばかりでなく、宝塔院は修行の場でもあったようです。良寛さまが宝塔院に宛てられた「禅定窟(ぜんじょうくつ)」とある横三字の遺墨は、おおらかで潤いにとむ、清らかな書で、現在も市内に所蔵されています。禅定とは、心を一つに集中して、安定した状態にすることをいい、この状態を得るために、その昔、仏道修行者が山中や巌窟の中で坐禅したことから、坐禅をする場所を「禅定窟」といったとされます。したがって、良寛さまは宝塔院を尋ねては、修行を重ねておられたことがわかります。
 良寛さまが隆全に宛てられた書簡が4通現存しています。その中の1通に、文政11年(1828)11月12日朝発生した三条地震で、隆全をはじめ、宝塔院の住職、隆観(りゅうかん)や三浦屋幸助の安否をたずねられたものがあります。
 三条地震の規模はマグニチュード6.9の直下型地震で、震源は栄町芹山(せりやま)付近、太陽暦で12月18曰午前8時ころのこと。三条では冬ごもりの準備で賑わう二・七の定期市のさ中のできごとでした。突如として大揺れが襲い、一瞬にして町家が将棋倒しになり、動てんした町人たちは火の始末どころか、われ先にと逃げたため、煮売店から出火して、町内13か所から一度に燃えあがり、いたるところ阿鼻叫喚の地獄絵を現出しました。
 被害は越後11藩に及び、被災地域全般で、全潰が1万2859軒、半壊が8275軒、焼失1204軒、死者1559人、けが人2666人、堤防の欠壊が75km余にも及びました。いち早く発行されたかわら版では、「弥彦山は大きく崩れ、海の中へ押し出し、三条町・燕町等残らず倒壊、けが人はその数知れず、古今稀れなる大地震」だと報じています。
 当時、島崎の木村家の一隅に身を寄せられていた良寛さまは、心痛のあまり宝塔院の隠居隆全に宛て、次の書簡を送っておられます。

     「此度(このたび)三条の大変承信(うけたまわりまこと)に恐入候(おそれいりそうろう)御尊体如何被遊(いかがあそばされ)候や 宝塔院御住寺如何被遊候や三浦屋如何成(なり)候や もし命有(いのちあり)候ハバ 宜しく御伝言御懶上(たのみあげ)申候 其他一一(いちいち)筆紙に難尽(つくしがたく)候 此方大(このほうおおい)ニいたみ候ヘども野僧が草庵ハ無事ニ御座候 御心安くおほしめし被下度(くだされたく)候 早々頓首(そうそうとんしゅ)
      霜月(しもつき)廿一日
     宝塔院御隠居様 良寛          」

 良寛さまは地震の惨状を目で確かめずには居れず、71歳の老躯をおして三条まで足を運び、

    三条の市に来て

なからへ(え)(ん)ことや思ひ(い)しかくばかり変は(わ)りはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらぬものは涙なり人の見る目も忍ぶばかりに

と詠んでおられます。隆全は住職とその弟子覚明(かくめい)とともに、地震で不慮の死を遂げた無縁仏の骨を拾い、翌12年8月、宝塔院境内に地霧亡霊塔(市指定文化財〉を建て、被災者を懇ろに葬りました。